自分らしさを求めて働き続けていた時、CDAに出会った
[2016/01/28]
女性が自身のキャリアを形成していくにあたって問題となりやすいのが、ライフイベントの存在です。特に結婚・出産・育児は、現実的に女性への負担が大きく、それまで続けていた仕事を辞めざるを得ないケースもあります。幼い子を持つ場合は、時間の制約などによりフルタイムで働くことができず、正社員になることを諦めざるを得ないケースもあるでしょう。
本記事でご紹介する名古屋才子さんも、まさにそうした事情で苦悩してきました。持ち前の明るさとバイタリティーで精力的に働きながらも、「自分が目指しているやりがいとは違っていて、ずっと自分のキャリアに納得できなかった」と言います。そんな名古屋さんが「これだ!」と直感した仕事がキャリアカウンセラーです。
名古屋さんはどのように働き、何に苦悩し、どうやってやりがいある仕事につなげていったのでしょうか。その足跡は多くの女性の参考になると思います。ぜひご覧ください。
●今回お話を聞いたのは・・・
私立大学勤務
2級キャリアコンサルティング技能士
国家資格キャリアコンサルタント
キャリアカウンセラー(CDA)
名古屋 才子 さん
大学卒業後、私立高校の国語科教師、専業主婦、学習塾講師、日本語学校教師、生活情報紙営業、学習塾マネジメントなどを経ながら、自己のキャリアを模索。CDA(キャリア・デベロップメント・アドバイザー)資格取得後は、私立大学にて学生へのキャリアカウンセリングを中心に就職活動支援を行っている。
父の影響でキャリアを意識する
私が自分のキャリアを意識したのは、比較的早い時期でした。父の影響で、小学校低学年の頃から「これからの女性は仕事をしなければいけない。弁護士か作家がいいだろう」と聞かされて育ってきたからです。当時は小学生でしたから、あまり意味がわかっていなかったと思います。
その意味に気づき始めたのは中学生の時だったでしょうか。でも、作家にはなれないだろうし、弁護士になるには膨大な勉強量を要します。そこで思い浮かんだのが学校の教員です。教員が多い家系だったこともあり、身近に感じたのでしょう。地域柄、選択肢の視野も狭かったのだと思います。
また、父の仕事柄、多くの人と関わる機会が多かったため、人とかかわる仕事にひとつの軸があったのかもしれません。父から「お前はいろんな人とかかわって、ものを教えるのが向いている」とささやかれたこともありました。
充実していた私立高校の教員時代
大学卒業後に就職したのは、地元・茨城県の私立高校です。国語科の教員として古文を担当しました。
教員時代は本当に楽しくやりがいを感じられました。私立高校ですから成績順にクラス編成されるのですが、私の場合、上位でないクラスの印象が強く残っています。授業で「何かひとつでも持ち帰ってほしい」「何かひとつでも覚えてもらえば」という気持ちで、工夫もしていました。たとえば、源氏物語の授業の際には『あさきゆめみし』というマンガのワンシーンを紹介したり、和歌にお花の名前が出てくる授業には実際のお花を摘んで持っていったり。生徒から「すごく面白かった」などと言ってもらえたりもありました。
生徒たちを連れて甲子園に応援に行ったことも、楽しい思い出として残っています。
結婚・退職。幸せながら、教員への思いが残る日々
結婚を機に教員から離れることに決めました。楽しい3年間でしたが、「家庭を一番に」と考えていましたので。夫や子供たちとの生活は充実していました。
ただ、ひとりの女性のキャリアとして考えると、「教員を続けられなかった」という思いを抱くことがしばしばでした。たとえば、友人が教員を続けているのを見ると、辛くて悔しい思いをしました。「どうして私は今、教員をやっていないんだろう」と。自分が選択した道ではあるのですが、そんな思いがどうしても湧いてきてしまう。だからと言って、夫にあたることもできないし、親にも言えない。そんな日々が続きました。
そうした思いの裏返しか、「何かやりたい」とその時その時の状況下でできる範囲で教育に携わる仕事を求める自分がいました。
ただ、子どもは2歳違いで2人いるのですが、上の子が産まれてから下の子が幼稚園に入るまでは、外へ働きに出られませんでした。夫の親も私の親も近くに住んでいませんでしたから、支えを求めるわけにもいきません。そうした中で選んだ仕事は、古典の通信教育の添削です。
下の子が幼稚園の年中さんになり外に出て働けるようになってからは、塾の講師をしました。その時は、自宅以外の場所に自分の机があるだけでうれしかったですね。さらに、「高校生を対象にした通信制のフリースクールを手伝ってくれないか」と言われ、自分の生きる活路のようなものが見えてきました。
ところが、夫の転勤が決まったのです。結局、塾の講師は3年で退職しました。
精力的に働いていても満足できない
転勤先は東京です。子どもたちは2人とも小学生になっていましたが、塾の講師は夜遅くなりがちです。
そこで、今度は日本語学校の教師を目指そうと、日本語教師養成講座を受講して4〜5ヵ月勉強しました。そして、まだ検定も受けていない時期に、ある学校に応募したら「今ちょうど教師が足りない」ということで働くことができました。
でも実は、もうひとつの仕事にも応募していて、そちらでも働けることになったのです。それは、『リビング新聞』という地域の主婦向けの生活情報紙を発行している、サンケイリビング新聞社という会社です。仕事は広告営業と取材・原稿執筆。個人事業主として業務委託契約を結びました。広告をとれなければ収入にならない仕事です。
この2つの仕事を前にして、私は「両方」を選択しました。日本語の授業を多い時期で週に18〜20時間くらい受け持ちながら、その合間に企業や店舗に訪問営業する。授業をするにあたっては事前勉強や副教材の準備なども必要。家事もPTA活動もやっていましたから、睡眠時間3〜4時間ということもあったように記憶しています。自分でもよくやっていたなあと思います。
おそらく、何かをやらずにはいられなかったのでしょう。「自分はこうして仕事をしていられる」と自分で納得したかったのでしょうし、周りの人にもそう言いたかったのでしょう。
でも、精神的には心底から満足はしていなかったと思います。日本語教師の仕事も『リビング新聞』の仕事も楽しかったのですが、どうしても、充実していた教員時代と比較している自分がいたのです。正社員でもありません。周囲からは私がどのように映ったのかはわかりませんが、自分としては「いつになったら足元をしっかり固められるのだろう?」という思いが拭えませんでした。
キャリアカウンセラーしかない!
その後、家庭の事情で埼玉県に引っ越し、幼稚園児・小学生対象の学習教室のマネジメントや、幼稚園・小学校のお受験をサポートする教育会社の仕事をしました。でも、教育には携わるものの、民間企業は利益追求が伴います。それを私が純粋に受け入れられなかったのです。「何かが違う」とずっと違和感を抱いていました。やはりその点でも、高校教員と比較してしまう自分がいました。
そうして結局、埼玉県のサンケイリビング新聞社で働くことにしました。「たいへんだけれど、もうこの仕事しかない」「やりたいことだけやろう」という気持ちでした。そこで、ミセスの再就職支援の記事企画を立てたりして動いていた時に見つけたのが、キャリアカウンセラーの仕事です。
「私がしてきたこといろいろな経験が、キャリアカウンセラーとして活かせるのではないか」
「これまで自分なりにやってきたバラバラな仕事を、ひとつにまとめて活かせないか」
「自分のキャリアを統合し、教育の現場に戻れる仕事は、キャリアカウンセラーしかない!」
直感でそう思いました。そうして、日本マンパワーの無料説明会に参加し、「キャリアカウンセラー養成講座」を受講することを決めました。
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★「キャリアカウンセラー養成講座」を受講した名古屋才子さんは、その後、どのようにキャリアを形成していくのか? 本記事の続きは来月の当コーナーでご紹介いたします。
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