50代後半の先輩の姿を見て「辞めなきゃ」という強迫観念
[2016/09/28]
キャリアカウンセラー(CDA)は、その人の生き方を支援する専門家です。就業に関連する相談対応が知られているため、もしかすると、企業の人事部門や、人材関連会社、学校、ハローワークなどの行政機関で活躍しているイメージが強いかもしれません。
でも実際には、さまざまな業界のさまざまな職種の人たちがCDA資格を取得し、それぞれの分野で活かしています。
本記事で紹介する石崎公子さんもその一人です。石崎さんは、広告代理店のプロデューサーを経て、現在、個人事業主として、広告・PRのアドバイス、ブランディングサポート、プロジェクト運営や組織作りのサポート、遺影や終活をテーマにした講演や執筆、エンディングノート講座など、多岐にわたる活動を行っています。
石崎さんがなぜCDA資格にチャレンジし、今どのように資格を活用しているのか。非常に興味深い経歴、社会をクリティカルに深く見つめる考え方とともに、ぜひご参照ください。
●今回お話を聞いたのは・・・
石崎公子事務所 トラベシア 代表
コミュニケーション・スペシャリスト
石崎 公子 さん
◇国家資格キャリアコンサルタント
◇CDA(キャリア・デベロップメント・アドバイザー)
◇終活カウンセラー
◇供養コンシェルジュ
◇セカンドライフアドバイザー
1982年広告代理店に入社。勤続25年(マーケティング/プロデュース)で退職、独立。個人や小さな法人の広告・PR・ブランディング、制作支援のほか、プロジェクトの運営推進や組織づくりサポート、キャリア形成・コミュニケーションスキルの向上の指導を行う。生き方がにじむ顔つきや遺影に注目したことから終活業界とつながり、エンディングノートを活用した生き方講座やワークショップ、終活関連書籍などを手がける。著書に『失敗しないエンディングノートの書き方』(法研)がある。
サル好きの高校生の“成り行き”人生が始まる
高校生の頃、私はサルが好きでした。一人で動物園に行ってずっとサルを見つめている、変わった高校生。ニホンザルの群れの生態が、すごく面白かったのです。
大学に進学したらもっとサルの研究をしたいと思っていました。別に、サルに関する仕事に就きたかったわけではありません。「将来は主婦になりたい」と思っていたほどですから。とにかく、サルの研究がしたかった。でも、サルの研究をしている大学は全国でもごくわずかです。第一志望校に合格できれば問題ないのですが、いわゆるすべり止めの大学がありませんでした。
そこで、当時担任だった生物の先生が「すべり止めに」と勧めてくれたのが、栄養学を学ぶ大学です。栄養学にはまったく興味がありませんでしたが、先生の話によると、動物学で著名な先生が一般教養の講座を持っているようです。
「大学を出ても、いい就職先は男子が優先されてしまう。栄養学の専門を身につけながら、好きなサルの勉強ができればいいじゃないか」
当時、女子の就職が難しい時期でしたから、先生はそう言ってくださいました。
「じゃあ、その大学も受けておくか」
これが、私の“成り行き人生”の始まりのような気がします。
瓢箪から駒で広告代理店に入社
結局、第一志望校には合格できず、栄養学を教える大学に通うことになりました。担任の先生に紹介された講義は、予想以上に面白い授業でした。夢中になって動物の生態を勉強しました。
就職にあたっては、栄養学の大学ですから、主だったところは病院の栄養士、学校給食の栄養士、保健所の栄養士……。
「どうするのかしら、私」と思いつつ、入社を決めたのは広告代理店です。私としては、「人々の健康を守るために、食生活の面からの貢献することにかかわれたらいい」と思いましたし、その広告代理店は料理番組を制作していたため、栄養士の資格を持つスタッフがほしかったのでしょう。瓢箪から駒のような流れで入社しました。
ただ、入社1年目はほとんど役に立たなかったように思います。その後、マーケティングや営業への部署異動などもありましたが、当初は教えてもらうばかり。叱られながらも、悔しい一心で働く毎日でした。
それでも少しずつ成長していくことができました。皮肉なことに栄養学とはほとんど関係のない仕事で認められ、さまざまな業界の広告、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、イベント、Webまで、プロデューサーとして約20年間、やりがいのある仕事を任されました。
ちなみに、プロデューサーの仕事は全体統括です。お客様に営業し、お客様の課題を見つけ、予算を踏まえて課題解決のための広告・PRを企画し、スタッフ選定を含めた運営・制作などのプロジェクトを担います。
会社が大きくなかったので、それらを一貫して担当することができ、非常にやりがいがありました。経験を積むごとに、「私は何でもできる」という思いも抱いていくようになりました。
以前はカッコよかった先輩が、つまらなく見えた
そうした中、自分の将来に対して気になることがひとつありました。それは、同じ会社の50代後半の先輩の仕事ぶりがつまらなく見えたことです。私が入社十数年経った頃の話です。
先輩方は、私が入社した頃、すごくカッコイイ、尊敬できる人たちでした。リーダーシップをとって現場を引っ張っていました。でも、それがいつの間にか、仕事を惰性で流している感じに見えてきたのです。私にはそれがしょぼくれたイメージに映りました。
「私も年をとったら、つまらなくなっちゃうんだろうか?」
「私、この先、どうするんだろう?」
そんな漠然とした思いが襲ってきました。その思いが「この会社にいるからああなるのかも」に発展し、「カッコイイうちに会社を辞めなきゃ」という強迫観念にとらわれるようになっていきました。
今思えば、認知の歪み(編集部注:出来事を歪んで認知してしまい、ネガティブな思考や感情をもたらすこと)だったのかもしれません。とにかく、自分がカッコイイうちに退職して有終の美を飾ろうと、辞めるための根回しをするようになりました。
個人業績も居心地も良く、会社はとても私を大事にしてくれましたが、1年後には思惑通り退職しました。
「私、何のために会社を辞めたんだろう?」
自分で「何でもできる」と思っていましたから、広告代理店退職後は「さあ、新しい『何か』をやろう」と前向きに考えていました。でも、いざスタートしてみるとなかなかうまくいきません。途中でつまずいて動けなくなり、結局止まってしまいました。起業のためのスクールに行っても、どこに向かうのかわからない。そうした暗中模索の中で、結局は出版編集の受託や、広告代理店でしていた広告営業の仕事の延長線上しかしなくなっていました。
「私、何のために会社を辞めたんだろう?」
「こんなことをやるために辞めたんじゃないのに」
「いったい私は何をやっているんだろう?」
こうした思いが自分の頭を占めるようになりました。
遺影は残していく人への思いやり
また、それとは別に気になり始めたのが「遺影」です。
そのベースには、以前から不思議に感じていた「人の顔の変化」があります。広告代理店で働いていた時、女優やモデルはカメラを前にすると、それまでの顔を一変させて素敵な顔になります。一方、一般の人は、普段は素敵でも写真を撮ると残念な仕上がりになる。また、若い頃にすごく美人だった人が年をとるとそうでもなくなったり、逆に、若い頃に目立たなかった人が年を経て素敵になったりします。「この差はなんだろう?」と思っていたのです。
そして、その究極的なものが遺影ではないかと漠然と思ったのです。
そんな頃、印象的な出来事がありました。
義父ががんを患ったのです。余命も告げられました。私は看病をしながら、「いい遺影を残してあげたい」という思いが強くなりました。そこで、家族がみんな集まっている時に知人のカメラマンを呼んで、和気あいあいと楽しんでいる様子や記念写真などの写真を撮ってもらいました。義父はそれをすごく喜んでくれて、お茶の間の一番目立つ場所に飾っていました。
残念ながら、義父はその後亡くなりましたが、ある時、義母がこう言いました。
「夫はいなくなったけれど、私、この写真のおかげで寂しくないわ」
遺影の持つ力は、それほど大きいのです。寂しくないと思わせる力。遺影には、残していく人への思いやりも詰まっているのです。残された人への愛情表現のひとつだとも言えます。
まだ「終活」という言葉がなかった頃、仕事も中途半端なまま、私はそんな風に遺影の意味について考えていました。
—————————————————————————————————————
★この後、石崎公子さんは遺影に関するブログを書き始めます。それがきっかけで、書籍執筆につながり、キャリアカウンセラーの資格へとつながっていきます。果たしてどのような経緯で現在のご活躍に展開していったのでしょうか? 本記事の続きは来月の当コーナーでご紹介いたします。
—————————————————————————————————————